宝箱と本棚

大学生の頃、文章を書くクラスに参加していた。いろんなテーマがあって、自由に文章を書き、それを皆で評論する。良し悪しを話し合うのではなく、好みや感想を言い合うようなディスカッションをしていた。そして、度々、教授は授業の感想アンケートを個人的に取ってきた。何を書いたか覚えている。

文章を書くということは、身の切り売りをしているようなものだ。それは、時に、あたしにとってはとても不安になる。

いまこの文章を書いていることもそうだ。他者に読んでもらうものという前提の上、あらゆることを考慮しているつもりだ。つまり、少しは控えめな表現にしたり、平易な表現にしたり、個人の特定を防いだりと、あらゆる人が読む可能性を考えている。しかし、基本的には、あたしが話したり、書いたりする言葉は、あたしの気持ちや意見や経験を言語化しているの、あたしにとっては身の切り売りをしているのとあまり変わらない。

 

ところで、あたしはあまり他人に自分のお気に入りをすすめない。第一に、プレゼンテーション能力が低いので、あまり関心を持ってもらえないという経験が多いためである。しかし、あたしの友人らは、まあまあな頻度でおすすめを教えてくれる。そして、それはあたしにとってはいつもとてもうれしい情報だ。すきを広めることで、あたしにみたいにしあわせになる人が増える。ありがたい。

ある時、とある話の流れで、自分のお気に入りを教えてしまったことがある。珍しく相手の反応は良くて、その情報は有益だとのことだった。その瞬間は役に立てたことをうれしく思った。変化に気づいたのはその後だ。教えてしまった自分のお気に入りをいつものように楽しめなくなってしまったのだ。

「教えてしまった」「自分のものではなくなってしまった」「自分から切り離されてしまった」

このような喪失感が邪魔になり、楽しめなくなった。そこで気がついた。あたしが教えてしまったお気に入りとは、まるで自分だけの心がときめくあらゆるものを詰め込んだ宝箱の中身を、1人で取り出して眺めるような秘められた楽しみなのだ。対して、あたしが他人に広めて共有したいと思うすきなものは、まるですぐ手に取れる本棚の前列に置いてある本のようなもので、別に手に取って試し読みしてもらっても全く構わないようなものなのだ。こうした違いが自分の中にあることを、この喪失感を味わうまで、知らなかった。

 

教えてしまったものは仕方ない。過去のことは変えられない。だけれど、自分にはこういう性質があるのだと知った。驚いたけど、まあ納得だ。思い返せば、あたしがお気に入りを伝える人はあたしにとっては特別な人だ。いつも行く喫茶店、大事にしている詩、影響を受けた映画。おすすめした記憶にあるのはこれくらいだろうか。単にハマってるものやすきなものを伝えることは、あたしの苦ではないので、時折すすめている。ドラマや音楽、最近読み終わった本などだ。

 

あたしには宝箱と本棚がある。宝箱は自分のものだ。大事にしよう。本棚は見たい人には見てもらって…。まあ、あたしの部屋に誰かを入れるかどうかというところからして、そうそうないことですが。