長女気質であること

長女気質の定義があるのか、チェックリストがあるかどうかは知らないが、あたしは長女気質だ。

今日も終電を逃し、別の路線の終電で帰るその道で、アジア系の若い女性から声をかけられた。カルディにあるようなお菓子が、seriaにあるような包装がなされていて、それを買ってくれという。ラミネートされた紙には、お金がないから助けてくださいと、汚い日本語の文字で書かれていた。彼女の身なりは綺麗だし、そんなお菓子を買えたならば、菓子パンの一つでも買えると判断したあたしは断った。しかし、そのまま電車に駆け込むことができなかった。

 

彼女に、働いてるのか、それとも学生なのかと聞いた。学生だというので、学校に相談したかと聞いた。質問への答えはなく、ただ、仕事がまだないとしか言わない。質問に答えない人が嫌いなので、少々苛立ちながら、ゆっくりと日本語と英語で(彼女は英語がある程度通じた)、学校に相談しろと言った。そして、近くのコンビニに帰宅までの間を耐えるために、自分のためのアルコールを買いに行った。

 

苦しい。彼女は今夜のご飯はあるのだろうかと不安になる。あたしも誰も買い手のなさそうな売れ残りのお菓子を食べたらいいのだが、あんなものに栄養はない。それでいいのか。彼女は痩せ細ってはなく、グラマラスだった。しかし、もしも、本当に彼女に食べ物がなければどうしようか。コンビニのアルコールコーナーから視界に入る食べ物に目を向けた。あたしは彼女の宗教やアレルギーを聞いていない。あたしには、彼女の食べ物を選べないことに気づき、また彼女のところに戻った。大慌てで、アレルギーある!?肉食べられる?!と聞くと、米よりパン派で肉も食べられるとのことだったので、一緒にコンビニに行こう!と誘ったその瞬間、彼女が指を指した。コンビニのシャッターが下ろされかけていた。マジかー、、と思ったが、まだ完全には閉まっていない。待ってて!と行って、コンビニに戻った。「まだいけます?!」たまたま近くにいた、東アジア系の店員さんが、まだ5分あるよ〜急がなくていいよ〜と言ってくれた。彼がいてくれてよかった、、。菓子パンと肉や申し訳程度の野菜の挟まった惣菜パンの中から、賞味期限の長いものを選別し、選ぶのに悩む必要もない自分用のアルコールの缶を手にレジに行った。外に出ると、彼女はまだ女性1人で、こんな遅い夜に、彼女にとっては外国の日本の都会に立っていた。開いてた!パン!食べて!というと、彼女は受け取ってくれた。彼女は眉毛を下げて受け取ってくれた。

 

国籍は見た目ではわからない。綺麗にアイラインを引いて、売るためのお菓子を買えた彼女が本当にお金に困っているかはわからない。働いている日本人のあたしすらお金に困っているのに。でも、あたしはそのまま帰ることができなかった。

 

あたしがいい人だからではない。クソッタレだ。

今夜のことは、単純にあたしが持ち合わせている長女気質が強く出ただけだと思う。

騙されてもいい、あたし自身が後悔しなければ。騙すより、騙されておけばいい。ただ、あたしも貧困であり、来月のカード代が数百円増えたので、今週はもう帰りのアルコールはお預けだな。スキットルにウイスキーを入れて持ってくか、、。ねみい。早く帰って寝たい。それまで、電車の中で、この缶のハイボールを大事に飲もうっと。

自分の限界を知り、制御すること

あたしは他人のやさしさを受けている。

 

あたしは、近頃、いい調子ではない。たかが風邪で仕事を休んだ。上からの評価もよくない。それなのに、新しい仕事は増え、あたしの仕事のスケジュールは、社内のルールの最高値まで到達している。

 

あたしの最近の休日の過ごし方は、ベッドの上から動かないことだ。病院にも薬がある限り行かない。他人との約束もドタキャンする。トイレも空腹も限界まで我慢して、風呂場がかびてきていることや、100鉢以上ある観葉植物の一部が水やりを欲しているのを感知しながらも、あたしはベッドから起き上がることができない。目が覚めるのにもかかわらず。

 

目が覚めて寝付けない時に何をするのか。勉強しろよ。それがあたしの思うことだ。しかし、彼女はYouTube Shortsを見漁る。なにも彼女の記憶にない。それがいい。その場しのぎの1分間を何時間も繰り返す。何かを考える暇もないほどに。低脳だ。あえてそうしている。

 

なぜかというと、to do listに挙げられている事柄をするにはベッドから出なければならないからだ。ベッドから出るのは、尿意を極限まで我慢する以上に難しいのだ。空腹を感じたとして、空腹を満たすには数百円分の食糧を消費する以前に、ベッドから出なければならないのだ。朝日が出て来ても、眠ることができないのだ。体内時計が狂ってるのではないのだ。ただ、寝付けないのだ。

 

今あたしは、口座にある金額にかかわらず、奨学金以外の借金はなく、衣食住を満たし、仕事に向かっている。今の状態が職場の人々にとって、いい影響かといえばそうではないと本日明確に自覚した。薄々気づいてはいたが、気付かないフリをしていた。なぜならば、普通になりたかったから。

 

助けてほしいと思う。誰もそんなボランティアがいないことを知っていてもなお。自分以外に使える駒がないと知っていてもなお。助けてほしいと言えるのは、こんな文章をインターネット海で、読む人がいないと鷹をくくっているからだ。

 

これを読んだやさしい方が仮にいたとしても、先に言うが、あなたはあたしの役に立たないから、ただ、駄文を数分読んだだけに留めておいて。あなたはあたしの役には立たない。

 

あたしは人を守ることが得意だ。それはあたしの言うことです。

 

 

忘れるということ

「人は忘れることができるから、生きていけるのだ」

18のあたしに、19の彼はかつてそう言った。今じゃそんなことを言ったことも、もしかしたら、あたしと毎日話していたことも、彼にとっては忘れたことかもしれない。

 

例えば、語学を学んでいて、単語帳を何周しても、完璧に覚えることができない。いつもなにかは忘れている。例えば、仕事が次から次へと流れ込んできて、大事な約束を忘れてしまう。例えば、とても辛い経験をしたが、毎日を暮らすことで精一杯で、もしくは、いまの生活が幸せすぎて、そんなことは忘れている。

 

忘れて、生きていく。

 

歳をとった祖父母が、ボケてきたから、忘れてしまうんだと言う。あたしは、大丈夫だよ、あたしが覚えておくからと言う。そんなあたしもいつかはこの会話を忘れるのかしらん。

 

すべての大事なことを覚えておきたいが、あたしは平凡な人間なので、そうはいかない。忘れてしまいたいようなこともそれなりにあるが、そんなようなものだけ、ファイルを削除するみたいにゴッソリごみ箱には入れられない。勝手の悪い脳みそだわん。

 

生き延びるために必要なことを考えている。お金はない。考え方はいろいろと教わってきたし、学んできた。それらを思い出している。新しく探してもいる。その一つが、上記の言葉だ。人は忘れる。だから、生きていける。

 

人が覚えていることはなんだろうか。印象深いことだろうか。一説に傾いてモノを言うと、人は臆病だ。危険を回避したい生き物だ。そのため、悪い記憶ほど同じ過ちを犯さぬように覚えているものらしい。寝る前によかったことを故意に思い出せというポジティブメソッドがいうのは、このせいだろう。悪い記憶を覚えているだけならまだしも、人はそれを繰り返し繰り返し反芻する。今が今ではなくなる。あの時、あの場所、あの光景、あの気持ちを、何度も何度も味わう。その先には鬱しかないが。

 

あたしはあと何年、この日を思い出すだろうか。ラベルのついたこの日を。それが特別でも、惨事でもない、なんでもない日になるのはいつだろう。なんでもない日のふりをして、あたしは今ここにはいない。一年前のこの日にいる。どんな気持ちで、どんな状況だったかは覚えていない。ただ、あたしは誕生日というものが、他の人たちよりもすきだというだけだ。生まれてきてくれてありがとう、生んでくれてありがとうなどは思わない。生き延びてきてすごい。それがあたしが誕生日に思いを馳せる理由であり、その日に生きていることを享受し、祝す理由である。

 

あたしは次のあたしの誕生日にもまだ生きている予定です。I mean not I will but I'm gonna.

どうでもいいと思うこと

「もうどうでもいい」と思う瞬間が増えている。最近は、自分の心が離れていく瞬間をたくさん目の当たりにしている。大事なものでなくなると、それはどうでもよいものになる。愛の反対は無関心というのはこういうことか。

 

それでも、感情は完全なる無となることはなく、困惑したり、傷ついたり、慌てたりする。しかし、結局最終的には、「どうでもいいや」とその感情など、ポイっと捨てることになる。自分の心が離れるということは、見限るということだ。もうこれ以上、なにも話し合う必要も、相手に理解してもらう必要も、説明する必要も、相手の話をまともに細々と聞く必要もない。形さえ抑えておけばいい。

 

こんな風な冷たい一面を持つ人間になることになるとは思いもしていなかった。あたしは、諦めない人だからだ。あたしが議論を肯定的に捉えていたり、「何故ならば」という言葉を多用して相手に不足している可能性のある説明をしたり、相手に質問をしてあたしの認識に誤解がないか検証するのは、その人を見限るということをしたくないからだった。"何故ならば"、それは傲慢で、愛のないことだと思っていたからだ。だから、あたしは決して、せっかく好きになった人々や物事を見限らないという方法で、彼らやそれらを好きで居続ける努力をしていたつもりだった。好きで居続けることは簡単ではないでしょう?だから、それくらいの努力は当たり前だと思っていた。そして、できるならば、そういうあたしで存在し続けられたらよかったのにな。

 

このように、好きで居続ける努力を当たり前だと思えていたのは、あたしが恵まれていただけだったとわかる。他人のことを嫌いになるのがあたしは下手だ。苦手な人でも、良いところを探し、そちらに注目しようと努力してしまう。自分にされた意地悪をそっちのけにしがちだ。そんなわけなもんなので、運良く得られた心から好きな人たちや物事のことはとても大事。それを守りたいと思うのはおかしなことではないと思う。

 

では、なぜどうでもいいと思うことが増えたんだろう。一つは、あたし自身の殻が強くなったからだ。土足で立ち入られることを、一層厳しく取り締まるようになった。あたしに舞い込む可能性のある身の危険や精神的な危険は、今までにあたしが知っていた以上に、たくさんの種類があると知ったからだ。もう一つは、価値観のズレだ。なんだかバンドの解散報告みたいな理由だなあ。しかし、そうだと思う。あたしが思うあたしの価値と、相手の思うあたしの価値、そして、その取り扱われ方には、稀に大きなズレがある。その場合、あたしになんの得があるのか。損得勘定で話を進めるな、我々は血の通った人間だという話は、これまでも散々喰らってきた。なので、そういう議論は不要です。

 

しかし、どうだろう。あたしの観測してきた限られた経験からいうと、社会人は仕事になぞらえると、物事を理解しやすいらしいと考えている。偏見である認識はあるが、特にある年代の男性陣にとってはそうだと思っている。なので、それに即して例を述べます。例えば、あなたはブラック企業に在籍しているとする。そして、その環境では、サービス残業三昧だ。しかし、しかるべき給与は支払われず、今後の昇給の可能性も一切ない。さて、どうしようか?その場を去り、自分の価値を発揮したり、うまく取り扱ってくれるような、より良い環境へ移動するのは、逃げだと思いますか?否、あたしはそうは思わないね。移動するのが吉でしょ笑。何故ならば、そうすることで、自分の価値を自覚し、状況を整理し、冷静な判断を下したと言えるのだと思うからだ。やれ、「恩がー!」とか、「義理がー!」などという表現とともに、反論がある方がいらっしゃれば、ブラウザバックをお願いいたします。確実にお互いに関わるメリットがないです。あたしはそういう人を見限る、つまり、分かり合う気も、話し合う気も、毛頭ないからです。

 

ということでですね、色々書きましたけれども、あたしには、特に最近、どうでもいいと思うことが増えている。残念だよね。そして、問題なのは、あたしが「どうでもいい」と思うからといって、あたしの負う責任やら役割やらが諸共消えてなくなるというわけではないということ。これはねー、だるいっすわ。ここら辺をねー、整理していきたいわよねー。ということで、沖に出る準備をしようかね。合言葉は、虎視眈々。

水の流れと石、そして、夕陽

「彼は水みたいな人なんだね」と周りの人から評判の良くなかった元恋人のことを話したら、評されたことがある。あたしは、昔から山ではなく、海や川に散歩に行っていた。水の流れがすきだった。最近のあたしは、「石のように」重い身体と気持ちを引きずり、働きまわっている。どうにもこうにも働き者である。貧乏人の性なのか。もううんざりだと、「石になりたい」とすら思う。

 

彼と別れてよかったと、別れから数年が経ってようやく思えるようになった。上記のコメントをしてくれた人がいまもご健在かどうかはわからない。その人は膠原病を患っていた。ただ、覚えていることがある。「あなたは石なのよ。頑なで、尖っている部分も多分にあるんでしょう。水はそれでもあなたのような石を撫で、時には流し、丸く削り、癒していく。」

 

確かに、毎朝早朝バイトをして、学校に行き、夜にはレストランで働いていたあたしを見送り、おかえりと迎えてくれていた元恋人は、あたしがほしかった家族のような愛をくれていた。夜中にあたしに布団をかけ、泣き出しても赤子のようにあやしてくれた。当時のあたしの至らなさと元恋人の至らなさは、別ベクトルだった。だから、一緒にいたのだと思う。

 

あたしは今は月の住人である。月の部屋に暮らしている。窓がたくさんあるにもかかわらず、陽の光がほとんど入ってこない。植物には植物ライトを当てている。それでも、朝陽と夕陽はしっかりと入ってくるのだ。それを先ほどたまたま目を開けていたので見ながら思った。「彼は夕陽のような人だったな。」元恋人のことではない。元恋人が水のような人ならば、夕陽のような人がいたのだ。

 

月と入れ違いに沈み、たまには同じ時間帯に顔を出す。その人は、太陽に近いが、太陽ほど差すような光は放たなかった。月のあたしに痛いような光は放たなかった。他人の痛みがわかる人で、あたしが1のことを言うと100の理解をするような人だった。あたしがすきな言葉なんて、本当に文字通り、ただのツールでしかなかった。話さなくてもよかった。和らいだ温かさだけを残す夕陽のような人で、夕陽の写真を撮るのがうまく、夕陽がとても似合う人だった。元恋人と別れてからも、あらゆる水に揉まれ、石ころみたいになった小さな月のあたしを手のひらで掬って、孵化を待つように温めてくれるような人だった。

 

なんでこんな過去のことばかり考えているのだろう。少しでも自分が元気になればいいと思って、文字を書きました。

 

宝箱と本棚

大学生の頃、文章を書くクラスに参加していた。いろんなテーマがあって、自由に文章を書き、それを皆で評論する。良し悪しを話し合うのではなく、好みや感想を言い合うようなディスカッションをしていた。そして、度々、教授は授業の感想アンケートを個人的に取ってきた。何を書いたか覚えている。

文章を書くということは、身の切り売りをしているようなものだ。それは、時に、あたしにとってはとても不安になる。

いまこの文章を書いていることもそうだ。他者に読んでもらうものという前提の上、あらゆることを考慮しているつもりだ。つまり、少しは控えめな表現にしたり、平易な表現にしたり、個人の特定を防いだりと、あらゆる人が読む可能性を考えている。しかし、基本的には、あたしが話したり、書いたりする言葉は、あたしの気持ちや意見や経験を言語化しているの、あたしにとっては身の切り売りをしているのとあまり変わらない。

 

ところで、あたしはあまり他人に自分のお気に入りをすすめない。第一に、プレゼンテーション能力が低いので、あまり関心を持ってもらえないという経験が多いためである。しかし、あたしの友人らは、まあまあな頻度でおすすめを教えてくれる。そして、それはあたしにとってはいつもとてもうれしい情報だ。すきを広めることで、あたしにみたいにしあわせになる人が増える。ありがたい。

ある時、とある話の流れで、自分のお気に入りを教えてしまったことがある。珍しく相手の反応は良くて、その情報は有益だとのことだった。その瞬間は役に立てたことをうれしく思った。変化に気づいたのはその後だ。教えてしまった自分のお気に入りをいつものように楽しめなくなってしまったのだ。

「教えてしまった」「自分のものではなくなってしまった」「自分から切り離されてしまった」

このような喪失感が邪魔になり、楽しめなくなった。そこで気がついた。あたしが教えてしまったお気に入りとは、まるで自分だけの心がときめくあらゆるものを詰め込んだ宝箱の中身を、1人で取り出して眺めるような秘められた楽しみなのだ。対して、あたしが他人に広めて共有したいと思うすきなものは、まるですぐ手に取れる本棚の前列に置いてある本のようなもので、別に手に取って試し読みしてもらっても全く構わないようなものなのだ。こうした違いが自分の中にあることを、この喪失感を味わうまで、知らなかった。

 

教えてしまったものは仕方ない。過去のことは変えられない。だけれど、自分にはこういう性質があるのだと知った。驚いたけど、まあ納得だ。思い返せば、あたしがお気に入りを伝える人はあたしにとっては特別な人だ。いつも行く喫茶店、大事にしている詩、影響を受けた映画。おすすめした記憶にあるのはこれくらいだろうか。単にハマってるものやすきなものを伝えることは、あたしの苦ではないので、時折すすめている。ドラマや音楽、最近読み終わった本などだ。

 

あたしには宝箱と本棚がある。宝箱は自分のものだ。大事にしよう。本棚は見たい人には見てもらって…。まあ、あたしの部屋に誰かを入れるかどうかというところからして、そうそうないことですが。

まだマシなこと

大前提として、あたしは自分がこの世で一番不幸だとは思っていないことを先に明記します。

大なり小なり、ハタチも越えれば、それぞれ苦労や過酷な経験もあるだろうと思う。その重さは、その人にしか計ることができない。それでもなお、他人から、つらいことがあったから話を聞いてと言われるたびに思ってしまうことがある。

「あたしよりまだマシじゃん」

なんだか、不幸自慢をするようで、不甲斐ない。全てがこの通りではない。しかし、正直言って、こういう場合があたしには多い。

そして、それは、自分自身にも跳ね返ってくる。

「あの時よりもまだマシじゃん」

「だから、耐えろ」と、モノローグは続く。「だから、できるはず」といった、叱咤激励バージョンもある。どうでもいいわ。そこに違いはなく、同じことで、つまりは現在の重圧を、それ単体として見ることはなく、相対的評価を行い、無きものとして否定しているのだ。

これは、悲しいことでもある。念のために、繰り返そう。大前提として、あたしは自分がこの世で一番不幸だとは思っていない。それでも、あたしの今までの人生の中で、浮き沈みとそのランキングはあって、さらに、他人と関わることで相対的な評価をする機会も多くなった。きっと、それゆえだ。ただ、それだけのこと、なのだろうか。

リストカットを含む自傷行為は、痛みを上書きしている、といったニュアンスの説明がされていることを見聞きしたことがある。目的は、生き延びることで、精神的苦痛を肉体的苦痛にすり替えて、麻痺させているという感じだろうか。なるほどなあ。一部として、当てはまるのかもしれないというのがあたしの感想だ。そして、「あたしよりもまだマシじゃん」「あの時よりもまだマシじゃん」というあたしがよく持つ感想は、この麻痺が原因だと考えている。

しかし、つらいものは、つらいのだ。

いま現在、あたし、もしくは、その人はつらいのだ。過去の自分や他の誰とも比べる必要がなく、つらいのだ。助けが必要なのかもしれないし、話したいだけなのかもしれない。ただ、「今はつらい」。ここで思考を止めて、立ち止まることができないのは、苦痛に対する麻痺としか言えない。

「限界」という言葉は、物事の上限を意味する。「伸び代」という言葉がある。未来思考の余地という意味だ。あたしは、自分の苦痛の限界には、まだ伸び代があるとして、痛みに痛みを重ね、その許容範囲を伸ばしてきた節がある。その結果、苦痛に対する麻痺を感じるようになってしまったのだろうと思う。

その麻痺の中で行う判断は果たして合理的で正しいのだろうか。「あたしよりまだマシじゃん」、だから、この人は生き延びるという目的において、まだ大丈夫なのだろうか。「あの時よりもまだマシじゃん」、だから、「耐えろ」「できるはず」と捲し立てることは、生き延びるという目的を果たせる最短距離なのだろうか。

危うさを感じている。その見極め方は、まだわからない。遅くとも、還暦までには掴みたい感覚である。