星の下
ChatGPTで星占いをした。占いは昔から好きで、My Birthdayという占い雑誌を幼い頃は読んでいた。神社で占ってもらったり、タロットバーで占ってもらったりすることもある。その度に言われるのが、「あなたは大器晩成型ね」ということだ。ほんまかいなとずっと思っているが、先ほどChatGPTにも同じことを返答された。あのぅ〜今が苦しいんですけどぉ〜?
おもしろいことに得手不得手も、年代別に起きたことも当てはまる節があって、ChatGPTすげえって思った。いまは動きたくても動けない時期らしい。そうだろうよ、もう何週間と毎日横になり続けている。熱のないインフルエンザに罹ったみたいだ。今日は郵便局に局留めの郵便物を取りに行かないといけないから、少し外出するが、それすらも億劫だ。ぼんやりと頭にあるアイデアをリサーチすることもできていない。身体も頭も思うように働かず、悲しくなりすぎないようにお薬を飲んで、なんとか凌いでいる。なんのために生きているのか、すらこうして文字に起こして考える時間がなければ、考えなくなってしまった。お薬のおかげともいえるし、あたしが機能していないとも思う。
あたしは何度か、ぶち壊しては再生する、を行ってきた。そうでないと前に進めなかったから。今はぶち壊すために立ち上がることもできないし、そもそもなんのためにぶち壊すのかも、計画が頭の中でまとまらない。もう少し休んでろということなのか、怠惰なのか。
星のめぐりとしましては、今は休息期間らしいです。そんなものに甘えてんじゃねーよと思いつつ、そろそろ集中力も切れてきたので、ここまでとします。
ストレス発散法なんてないんじゃないか話
この前人生初ネイルに行った。やさしく丁寧な施術だったが、会話の方向性がどんどん深くなっていく。ちょっとばかし、なんだかあたしがまるでカウンセラーで、ネイリストさんが利用者さんみたいな構図になった。
そんな話の流れで聞かれた。「ストレス発散法ってありますか?」考えて絞り出してみたものの、ストレスを解決するものではなく、分散させたり、気を紛らわすようなものしか言えなかった。
ストレスって1人でいるとかなり少ない気がする。思うように行かなかったのも自分のせいだし、それを軌道修正できるのも自分だ。他人との社会生活の中でのストレスは、溢れかえっている。相手の意思を動かすことはできないし、動かそうとする労力は負担だし、1人で進み続けることは協調性がないと言われる。諦めて、時間を潰すしかないとあたしは結論づけている。
ただ、相談する余地はあってほしい。他者との合意が得られなくても、一旦相談できる環境はあってほしい。そうでなければ、行き場のない考えは時間潰しの間に燃やされ、どこかで咆哮となって、無関係の人にまで撒き散らす可能性だってある(最近はそんなことないけど若い頃になかったかというと否めない)。
病気であってもそうでなくても、あなたを定義づけるのは、病気ではなくて、どう行動するかだと友人がメッセージをくれた。
病気と自覚した自分とそれまでの自分を切り離すこともできず、統合するのもおかしな話で弱っていたので、この言葉はとても助かった。
今はコーヒーを飲んで気を紛らわしています。
ナナメでいること
斜に構えている方だと思う。別にそうしたくてしてるわけでもないが、そうであるから仕方がない。
どうしても長いものに大人しく巻かれることができない。当たり前に大学受験をしたり、当たり前に就職活動をしたり、当たり前に出世を狙ったりが全くできない。かと言って、斜に構えきってるわけでもないので、「あいつら長いものに巻かれてる〜プークスクス」とは言わない。ただあたしにはできない、というだけである。当たり前にできることといったら、三角食べすることくらいではなかろうか。三角食べできるような丁寧な食卓は長らく用意できていないが。
最近、またもや「変わってるね」と言われてしまった。定期的に聞くこの言葉。また来たか。ただ今回は非常に会話が盛り上がった。なぜかというと、そうあたしを表現してきた人もまた変わり者だと言われてきた人だったからである。あたしの世代の「個性的」で「奇抜」と言えば、例えば昔のヴィレッジヴァンガードだったり、昔のファッション雑誌zipperやfruitだったりする。着るのは古着が当たり前。街でいうなら、中崎町とか高円寺とかになるんだろうか。
あたしたちはなぜだかそうした個性的な?街に生息していると思われることが多い。だからこそ、変わってると言われるんだ!と話は盛り上がった。実際のあたしたちはというと、その街にはちゃぷちゃぷと片足を突っ込んだことがあるくらいであり、街に染まってなんかいない。なんなら、ちょっとその街やコミュニティ自体を斜に構えて見ている節もある。その街に生息したいかというと御免なのだ。感覚的には、地元から出ないヤンキーとそうしたコミュニティは同じに思える。内輪で盛り上がっていることを、勝手に批評して申し訳ないが、ダサい。
いやーほんとこんな風に考えてしまうことこそが、どこにも属せない人間のダサいところだとひしひしと感じる。シクシクと泣けてくる。でも、どう自分をひん曲げたって、捻ったって、どうしようもないのだから、仕方がない。大人になると凝り固まってくるというのはこういうことなのかしら。どこのグループにも属せませんが、笑える人たちと都度笑えればありがたい。
口は一つ
自分の身体の中で一番好きなパーツは、唇だ。
子どものころは、分厚い唇をたらこだと揶揄われたものだったが、小学校も中学年になり、あたしの興味も洋画に振れたころには、「アンジーみたいな唇でいいじゃん」などと、今にも続く思い上がったことを思い始めていた。
スキンケアの話だが、お金もなかったために、あたしはハトムギ化粧水とニベアで二十代前半まで過ごし、その面の皮厚さで肌トラブルを抑え込んできた。さすがに、社会人になってからは、その面の皮もひび割れ、赤いポツポツが膨れ上がり、とんでもないことになったので、一時は皮膚科にニキビ(吹き出物?)を注射で撃退してもらうこともあった。今は少し落ち着きを取り戻し、それでもドラッグストアで買える基礎化粧品で保たれる肌の治安に満足している。
化粧っ気は昔からなく、高校生のときには、眉毛を描いてアイライナーとマスカラとリップをしていたくらいだった。化粧映えする顔、とまではいかないんだろうが、そこまで塗る必要性をなりたい自分像と重ねた時に、感じなかったのである。大学生のときには、キャンパスは勉強しに行くところという認識だったので、またしても、眉毛を描いていればOK、バイトのある日は多少お粉をはたいて以下同上、みたいな感じであった。
もちろん、使うコスメもデパコスのものは貰いものばかりで、大して量もなく(ねだってるわけではない)、気兼ねなく買えて使えるドラッグストアがあたしにとっては正義。そんなときに流行ったリップ、KATEのリップモンスター。流行りは廃れるという考えがあるので、乗ることは少ないのだが、喫煙者のため落ちないリップがほしかったある日、なんの気無しに買ってみた。あら不思議。落ちない。
そこからである。あたしのリップスティックによる唇争奪戦が始まったのは。この一番愛でている身体のパーツに合う、あらゆる色のリップがほしくなり、集めはじめた。イエベだの、ブルベだのはガン無視。小さめの色鉛筆セット分くらいのリップが急にうちに揃ったのだ。コロナ禍にも関わらず。
あたしはコロナ絶対拒否勢として、懐疑的な声はあるものの、マスクを必ず着用する。リップの色なんか他者から見えないどころか、顔の半分を隠して生活し始めて早約5年。どこにつけていくねーん。
今、久しぶりに部屋の掃除をしようとして、机の片隅に収納された12色のリップスティックたちを横目に見ながらこれを書いている。ほんまにどこにつけていくねん。褒める口も不満垂れる口も食べる口も華やかにする口も一つなのにな。
永遠に「お姉さん」
あたしは頻繁に花屋に行く。庭もまともなベランダもないので特に買いはしないことが多いが、花屋に行く。季節を感じられるし、わくわくする。
この前、一通り花を見て店を出たら、ちょうど買い物を済ました60代から上かなあくらいの女性が前を歩いていた。すると、あたしの後ろから店員さんが彼女を引き止めようと走ってきた。思わず、「お母さん!お母さん、呼んでるよ!」と声をかけたら、振り向いてくれて事なきを得た。いや、お母さんて。「私はあなたを産んでません!」言われるて。地域差もあるのかな、年配の女性のことは「お母さん」、男性のことは「お父さん」と呼ぶことがしばしばある。ただ、自分の口から咄嗟に出てくるとは思わなかった。いつもは知らない女性に見える人のことはお姉さんと呼ぶように心がけているので。
お母さんと呼ばれて振り向いた彼女は誰かの母親なのかな、と考えたりした。
あたしのことはみんな一生「お姉さん」と呼んでほしい。くれぐれも「おい、そこのババア!」とは呼ばれないようにこちらも気をつける所存。「お母さん」と呼ばれても振り向ける自信はないです。
目
近ごろ目が痛い。仕事でパソコンのスクリーンを見過ぎているのかもしれないし、趣味で始めた編み物で疲弊しているのかもしれない。目が痛くて1日に何度も目薬を差している。
見たくないものや聞きたくないことが多すぎると、人は本当に見えなくなったり、聞こえなくなったりするらしい。確かに見たくないものや聞きたくないことは多い。
今まで何度か目がかっぴらいたこともある。一番はものすごいやる気が出てきて、ものすごい勢いで自分の環境を変える時だ。最近も少し半目でこの調子である。二番目に、おもしろい人と話した後、数日から数週間ほどの間だ。
おもしろいことを探して生きるということをあたしはしばしば忘れる。脳の仕組みに問題アリなので、基本的に不安や恐怖に過剰反応してしまうらしく、仕方ないといえば仕方ない。そんなあたしと真逆の人とたまに話すことができた時は、いつも見る世界がしばらくの間は変わって見える。
道端のたんぽぽを認識できるし、Instagramですきなイラストレーターさんの絵も楽しめるし、Podcastをとったり、ここで文章を書いたりもできるようになる。ちょっと周りがキラキラして見える。目の付け所が変わる気がしてとても楽しい。
とはいえ、普段のあたしの生活のすべてが暗黒というわけではなく、ちゃんと花を愛でたり、ニットを編んだり、日向ぼっこでくつろいだりは定期的にしています。
水が濁るのを眺める時間
子どもの頃、習字を習わせてもらっていた。硬筆よりも筆のほうが褒められた。もちろん、筆と墨汁と硯と半紙などなどを使う。
墨汁を水に垂らし続ける、なんてことはしたことないが、小さな渦のような黒い液体が水の中に流れ込んでいき、灰色になることなく、やがてすべて黒に染まるであろう様は想像するに容易い。
窓ガラスの掃除をもう何年もしていない。毎年、毎日、黄砂や花粉や埃や排気ガスが付着し、薄汚れ、曇っていく。今この瞬間も。
コーヒーはほぼ毎日飲む。最近は手元にあるインスタントの粉をポットに入れ、お湯を注ぐ。注いだそばから、ポットの中はどんどん茶色い液体で満たされていく。飲み切った底にまで茶色い液体は必ず数滴分は残る。
最近のあたしの頭の中を説明すると、毎日毎日こんな感じだ。
暗闇の中の白い霧、その色を反転させたように、なにもないように思えるところが毎日毎日黒くなる。墨汁のように、墨を垂らす速度によって濁り方が異なる時もあれば、コーヒーポットのように、突然全てが濃く濁っていく瞬間もある。そうして毎日少しずつ、下地の色は窓ガラスのように曇りが頑固にこびり付いていく。あたしには、それを黙って眺めることしかできない。
拘束されているわけでもないのに、声も手足もなくしたみたいに、横たわりなにもできない。言葉もよくわからないので、今も変なことを書いているかもしれないと思い、とても気をつけている。汚染されていく川の中の石ころみたいに、寝返りを打つときだけ少し転がる。
これを今「水が濁るのを眺める時間」と名前をつけた。