どうでもいいと思うこと

「もうどうでもいい」と思う瞬間が増えている。最近は、自分の心が離れていく瞬間をたくさん目の当たりにしている。大事なものでなくなると、それはどうでもよいものになる。愛の反対は無関心というのはこういうことか。

 

それでも、感情は完全なる無となることはなく、困惑したり、傷ついたり、慌てたりする。しかし、結局最終的には、「どうでもいいや」とその感情など、ポイっと捨てることになる。自分の心が離れるということは、見限るということだ。もうこれ以上、なにも話し合う必要も、相手に理解してもらう必要も、説明する必要も、相手の話をまともに細々と聞く必要もない。形さえ抑えておけばいい。

 

こんな風な冷たい一面を持つ人間になることになるとは思いもしていなかった。あたしは、諦めない人だからだ。あたしが議論を肯定的に捉えていたり、「何故ならば」という言葉を多用して相手に不足している可能性のある説明をしたり、相手に質問をしてあたしの認識に誤解がないか検証するのは、その人を見限るということをしたくないからだった。"何故ならば"、それは傲慢で、愛のないことだと思っていたからだ。だから、あたしは決して、せっかく好きになった人々や物事を見限らないという方法で、彼らやそれらを好きで居続ける努力をしていたつもりだった。好きで居続けることは簡単ではないでしょう?だから、それくらいの努力は当たり前だと思っていた。そして、できるならば、そういうあたしで存在し続けられたらよかったのにな。

 

このように、好きで居続ける努力を当たり前だと思えていたのは、あたしが恵まれていただけだったとわかる。他人のことを嫌いになるのがあたしは下手だ。苦手な人でも、良いところを探し、そちらに注目しようと努力してしまう。自分にされた意地悪をそっちのけにしがちだ。そんなわけなもんなので、運良く得られた心から好きな人たちや物事のことはとても大事。それを守りたいと思うのはおかしなことではないと思う。

 

では、なぜどうでもいいと思うことが増えたんだろう。一つは、あたし自身の殻が強くなったからだ。土足で立ち入られることを、一層厳しく取り締まるようになった。あたしに舞い込む可能性のある身の危険や精神的な危険は、今までにあたしが知っていた以上に、たくさんの種類があると知ったからだ。もう一つは、価値観のズレだ。なんだかバンドの解散報告みたいな理由だなあ。しかし、そうだと思う。あたしが思うあたしの価値と、相手の思うあたしの価値、そして、その取り扱われ方には、稀に大きなズレがある。その場合、あたしになんの得があるのか。損得勘定で話を進めるな、我々は血の通った人間だという話は、これまでも散々喰らってきた。なので、そういう議論は不要です。

 

しかし、どうだろう。あたしの観測してきた限られた経験からいうと、社会人は仕事になぞらえると、物事を理解しやすいらしいと考えている。偏見である認識はあるが、特にある年代の男性陣にとってはそうだと思っている。なので、それに即して例を述べます。例えば、あなたはブラック企業に在籍しているとする。そして、その環境では、サービス残業三昧だ。しかし、しかるべき給与は支払われず、今後の昇給の可能性も一切ない。さて、どうしようか?その場を去り、自分の価値を発揮したり、うまく取り扱ってくれるような、より良い環境へ移動するのは、逃げだと思いますか?否、あたしはそうは思わないね。移動するのが吉でしょ笑。何故ならば、そうすることで、自分の価値を自覚し、状況を整理し、冷静な判断を下したと言えるのだと思うからだ。やれ、「恩がー!」とか、「義理がー!」などという表現とともに、反論がある方がいらっしゃれば、ブラウザバックをお願いいたします。確実にお互いに関わるメリットがないです。あたしはそういう人を見限る、つまり、分かり合う気も、話し合う気も、毛頭ないからです。

 

ということでですね、色々書きましたけれども、あたしには、特に最近、どうでもいいと思うことが増えている。残念だよね。そして、問題なのは、あたしが「どうでもいい」と思うからといって、あたしの負う責任やら役割やらが諸共消えてなくなるというわけではないということ。これはねー、だるいっすわ。ここら辺をねー、整理していきたいわよねー。ということで、沖に出る準備をしようかね。合言葉は、虎視眈々。