水の流れと石、そして、夕陽

「彼は水みたいな人なんだね」と周りの人から評判の良くなかった元恋人のことを話したら、評されたことがある。あたしは、昔から山ではなく、海や川に散歩に行っていた。水の流れがすきだった。最近のあたしは、「石のように」重い身体と気持ちを引きずり、働きまわっている。どうにもこうにも働き者である。貧乏人の性なのか。もううんざりだと、「石になりたい」とすら思う。

 

彼と別れてよかったと、別れから数年が経ってようやく思えるようになった。上記のコメントをしてくれた人がいまもご健在かどうかはわからない。その人は膠原病を患っていた。ただ、覚えていることがある。「あなたは石なのよ。頑なで、尖っている部分も多分にあるんでしょう。水はそれでもあなたのような石を撫で、時には流し、丸く削り、癒していく。」

 

確かに、毎朝早朝バイトをして、学校に行き、夜にはレストランで働いていたあたしを見送り、おかえりと迎えてくれていた元恋人は、あたしがほしかった家族のような愛をくれていた。夜中にあたしに布団をかけ、泣き出しても赤子のようにあやしてくれた。当時のあたしの至らなさと元恋人の至らなさは、別ベクトルだった。だから、一緒にいたのだと思う。

 

あたしは今は月の住人である。月の部屋に暮らしている。窓がたくさんあるにもかかわらず、陽の光がほとんど入ってこない。植物には植物ライトを当てている。それでも、朝陽と夕陽はしっかりと入ってくるのだ。それを先ほどたまたま目を開けていたので見ながら思った。「彼は夕陽のような人だったな。」元恋人のことではない。元恋人が水のような人ならば、夕陽のような人がいたのだ。

 

月と入れ違いに沈み、たまには同じ時間帯に顔を出す。その人は、太陽に近いが、太陽ほど差すような光は放たなかった。月のあたしに痛いような光は放たなかった。他人の痛みがわかる人で、あたしが1のことを言うと100の理解をするような人だった。あたしがすきな言葉なんて、本当に文字通り、ただのツールでしかなかった。話さなくてもよかった。和らいだ温かさだけを残す夕陽のような人で、夕陽の写真を撮るのがうまく、夕陽がとても似合う人だった。元恋人と別れてからも、あらゆる水に揉まれ、石ころみたいになった小さな月のあたしを手のひらで掬って、孵化を待つように温めてくれるような人だった。

 

なんでこんな過去のことばかり考えているのだろう。少しでも自分が元気になればいいと思って、文字を書きました。