柳に憧れている話

「柳のようになりなさい」

5年前にハローワークで担当してくれていた、シルバーヘアの似合うフランス語が堪能で、独身で、子どもはおらず、休日には国際交流ボランティアをしているという女性に言われた言葉である。

 

新卒で入った会社を一年経たずして辞め、ハローワークへ行った。50代くらいの男性職員と話をした。残念なことに、どうやらお手上げと思われてしまったようで、ものの数分話した後に、担当を変えますね、と言われた。そして、目の前に現れたのが彼女だった。彼女はあたしの職歴や学歴だけではなく、今の生活や今までの人生について、深掘りするような質問をたくさんした。若かったあたしの知らない仕事や、世界について、あたしのプロファイルに寄りそう内容のものを厳選して教えてくれた。仕事を探していたけれど、彼女との時間は、転職活動の合間の息抜きのような時間だった。安全だと思える場所が家にも社会にも見つけられずにいたあたしが、唯一、自分の言葉で話し、それに対して手応えのある返答をしてくれると感じられた、安全地帯だった。

 

そんなわけだったので、あたしたちは、ほとんどの時間を雑談をして過ごした。ゲラゲラと笑う日もあれば、さめざめと無防備に泣く日もあった。どんな文脈だったかは忘れてしまったが、ある日、彼女が言ってくれたのが、冒頭の言葉だ。「柳のようになりなさい。どんなに強い大木でも、真っ直ぐすぎると、折れてしまう。風が吹いても、しなやかにしなり、雨が降っても、凛としている、そんな柳のような人に、あなたはなりなさいね。」あたしにそんな素質はない。あたしは真っ直ぐな人間だ。素直だし情熱的だが、頑固であり柔軟性に欠けている。彼女は戒めとして教えてくれたのだろうか、それとも、あたしが変われる可能性に少しは期待してくれていたのだろうか。

 

今もあたしは相も懲りずに「あたし」をやっている。真っ直ぐである。昨日決まった話が今日は変更になるなんてことがあると、馬鹿みたいにひどく傷つき、狼狽えてしまう。そんなことは、みんなにとっては当たり前なことなのだと、社会に出てからようやく気がついた。そして、今でもその事実を受け入れることが難しい。そこで、あたしは許してやるよ作戦を実施している。納得してないが、許してやるよという気持ちで、日々ころころ変わる状況に対応することで、自分を宥めすかすのだ。難しいのは、少しでも不満があると悟られてはならないことだ。決して傲慢に見えてはいけないということだ。苦しむことや尊厳を失うことなく、へーこらへーこらするフリを身につけようとしている。

 

あたしの趣味は植物を育てることなのだが、最近、新しくお出迎えした子がいる。その名も、「鳳凰柳」。松葉蘭という日本の古典植物で、葉や根を持たず、茎だけという不思議なもので、「生きた化石」とも呼ばれているらしい。とてもロマンチックだ。眺めるたびに思うのだ。あたしも早くあなたのようになりたいと。そして、未熟だったあたしに、大人の見本のように付き合ってくれた彼女を思い出すのだ。

 

新しいことを始めること

子どもの頃のあたしは、はつらつとしていた。しかし、周りと馴染むのがうまいかというと、そうではなく、休み時間にみんなとドッヂボールをして遊ぶことよりと、校庭の水仙を眺めて過ごすことを選ぶような変わった子だった。一方で、いわゆる仕切り屋な一面もあり、学級委員やなにかのリーダーにも何度もなってきた。自分の意見をはっきりと言い、特に善悪に関しては鋭い視点を持っていた。

 

大人になった今、特に、この5年くらいは怒涛の日々だ。占いによれば、やれ大殺界だの、やれ転換期だの、なんやかんやと書かれている。ならば、仕方ない。そうした中で、あたしの生活も仕事も大きく変わっていった。ヒトは変化が苦手な生き物である。あたしはその中でも群を抜いて、変化が苦手だ。そんなあたしが新しいことを始め続けてきたのだ。自分のことながら、「お疲れ様」と思う。

 

現在もあたしは変化の真っ最中にいて、てんやわんやと暮らしている。今、直面している新しいこととは、「人前でもっともらしく、説明する」ということである。リーダーを務めていた自己主張の強い子どもの頃のあたしを思えば、簡単だと思うだろう。大学でも、コミュニケーション学について学び、国籍年齢ジェンダーを問わず、たくさんの人たちと交流し、かけがえのない人間関係を築いてきた。しかし、社会人となり、特に、この怒涛の5年であたしは変わったのだ。変わらざるを得なかったこともあった。そうした中で、あたしは発言することがなくなり、発言することがこわくなった。心理的安全性が保たれていなかったことで、あたし自身が弱っていったことが原因だと考えている。その結果、悲しいことに、子どもの頃のリーダーシップは、現在のあたしには微塵も残っていないのだ。

 

しかし、そんなことも言ってられない。もう着手してしまったのだから、できるようにならないといけない。毎日いろんな人に学び、たくさん練習している。とても不安だ。しかし、「初志貫徹」であることを目指してみよう。あたしがこの挑戦をしようと思った目的はなにか。人前でスラスラと話せる技術を身につけてしまえば、あたしは今よりも最強になれるのでは、と思ったからである。この目的を達成するにはどうすればいいか。教えを乞い、練習を積み重ねている。あとは、おそらく実践する数をこなすことも必要だろう。

 

挑戦には、ハッタリが大事だと言われたことがある。とりあえず引き受けてみる。それから、どうにか帳尻を合わせればいいのだと。きっと今回の挑戦も、ハッタリが必要だ。できることをやり抜いてきているのだから、あとは、ハッタリの勢いで堂々とこなすことだ。

 

新しいことを始めるのは、ヒトという生き物が苦手とすることだ。だけど、とりあえず、ハッタリかまして、やってみよう。そして、果報は寝て待てということだ。心配や不安は尽きないが、やりきるぞ。

 

 

 

 

プライドが邪魔をするとき

あたしにはプライドなんてないと思っていた。あたしにあるのは誇りだと思っていた。Prideには、誇りの他にも、自尊心や自惚れの意味もある。

今のあたしはプライドがズタズタになっている。

 

これまでにもあったが、対人関係において、社会で耳の痛い指導をされることが多いのだ。つまりは、お前のコミュニケーションはダメだ、マインドセットを変えろということだ。単に、頭ごなしに言われたならば、それはハラスメントだが、理屈に則って業務のために必要だからと添えられてしまうと、受け取らないわけにはいかない。受け取ったものの、心の中でしたい反論もできずに、落ち込んでしまっているのだ。なぜかというと、プライドが邪魔をしているのだと思う。

 

あたしは"普通の"家庭で育ったわけではない。きっと、"普通の"人生を歩んでもいない。そして、それに負い目は感じることもあるが、生き延びていることを誇りに思っている。友人らにも恵まれている。良好な関係性が家族の外にもある。そんなあたしが社会では、コミュ障だと言われる。素直にショックだ。

 

そこで、今までやらずに済んだ、信念を持って避けてきたことをやろうと思っている。仕事用のペルソナを持つのだ。対社会用の自分を作り上げる。彼女は普段のあたしと違うマインドセットを持ち、コミュニケーション方法も違う。これまでは、あたしはいかなるときもあたしでいたかったから、必要に迫られても、この選択はしないできた。改善が必要ならば、あたし自身を改善するように心がけてきた。でも、今はそれではやりきれない。あたし自身と全く異なる人を、ステージママのように、自分の中に作り上げるのだ。おそらく日本の働く人たちはとっくの昔にやっていることだろうと思う。あたしはそんなのはクソ喰らえだったのだ。

 

スペイン人の友達に、このアイデアで解決しようと思うと伝えたところ、はちゃめちゃに心配された。そんなことをしたら、精神状態に悪影響が出るからと言う。そうなんだよ。だから、あたしはしてこなかった。でも、ここは少なくとも日本なんだよ、しないといけない環境なんだ。そう自分に言い聞かせるように反論した。海外でも同じかもしれないが、少なくとも日本だからだと言えるだろう。

 

まだ対社会用のあたしは胎児のままで、はっきりとした形にはなっていない。今日は口が痙攣するほどに、口角をあげることから始めてみた。あたし自身がそれに反対していることは変わりない。実験的に、戦略的に試しているだけだ。あたしの今まで生き抜いてきた誇りも変わらない。しかし、これは、これからも生き抜くための戦略だ。そう捉えようと悪戦苦闘している。

 

プライドなんてないと思ってたけど、そんなことはなく、プライドなんてものは、簡単に権力にへし折られるものだ。戦うよりも、しなやかに生き残ろう。明日もあたしは生きてやる。

ポッケの中を探してみること

「まいっちゃうなあって時にはさ、ポッケの中を探してみなよ。絶対なにか入ってる。使えるカードがあるはずだ。」

このようなことを言われたことがある。あたしのポッケは穴が空いているのだろうか。使えるものがまるでない気がする。

 

あたしは喫煙者で、週に数回お酒も飲む。最近は吸う本数と飲む頻度が増えているかもしれない。健康的なストレス解消法を調べたり、コーピングリストを作ろうとしたことがある。すでにまいってる時に、そんなものを探したとて、事前準備が甘いというもの。どれも効果が期待できそうになく、アイディアすら浮かんでこない。すると、煙草やお酒といった短絡的な対処をすることになる。これを書く前にもタバコを4本吸い、今はハイボールを片手にしている始末なので、どうしようもない。

 

こんなどうしようもない状況で、冒頭の言葉を思い出し、ポッケの中をまさぐっている。誰も欲しくないだろう経験や自分の中のドロドロとしたもの、そんなものばかりが手に当たる。たまに、あたたかい言葉や体験を思い出すが、掴み出そうとしても取り出せない。取り出したところで、あたしはハイボールを飲むのを止めはしないだろう。

 

誰も欲しくない経験は、果たして無価値だろうか。あたしの中のドロドロとしたものは、果たして不要なものだろうか。なんだか今日はそんな気分になっている。誰を欲しくない経験をあたしは恥じていない。負目に感じる状況は毎日のようにあるが、反面教師にして生きているつもりだ。あたしの中のドロドロとしたものは、吐き出そうと思えば、撒き散らすこともできるだろう。それをしないのは、自分に不利になるからで、他害する恐れがあるからだ。

 

他者との世界の中で、直接使えるカードではないかもしれないが、自分一人の世界の中で自分の忍耐強さや分別力を再認識してみた。抽出された、忍耐強さや分別力はポッケの中にいるだろうか。あたしの脳(ハードマシン)は癖が強いので、抽出に時間がかかるようだ。何年かかるだろうか。その何年かの間に、より実用性の高いカードがポッケに追加されたらいいなと思う。

 

自分の今までを全て肯定も否定もする必要はないと思うが、あたしの穴空きポッケの中にも、多少なりともなにかはあった。みなさんなら、もっとたくさんすてきなものがあるはずだ。「大丈夫大丈夫」と自分に言い聞かせる毎日の合間に、自分のポッケに手を突っ込んでみてほしい。なにか使えるカードがきっとあるはずだ。

10キロ先を向いて生きること

10キロ(おそらくもっと)先にある夢に向かって、生きられているだろうか。

あたしには夢がある。そして、夢とは全く違う業界で働いている。夢に直接関連する業務もない。仕事終わりには、ご飯を無理やり飲み込み、薬を飲み、お風呂に入らない日だってある。休みの日には、友人と会ったり、溜まった家事をしたり、たくさん寝たりする。

 

一日を終えること、一週間を過ごすことで精一杯な毎日だ。夢に近づけそうだと思って仕事の条件は絞ったが、夢に近い付いていると実感できることはほぼない。強いていえば、このブログだろうか。やりたいと思いながら、やらずに溜まっていることはある。ボランティアで経験を積むとか、オンライン配信の講義を見るとか、勉強をするとか。手がついていない。

 

少し前に、お酒ばかり飲み、文字通り涙も出ないほど、くたばっていた時期があった。その時に送られたメッセージがある。

「今はそれでいい。ただ、身体だけは10キロ先向いていこう。目標に向いてさえいれば、少し動くだけで進んでいくから。」

あたしは馬鹿みたいにこの言葉を信じている。

目の前のことで手一杯で、行動できない毎日の中で、必死に生きている。情けない思いもあるが、しかし、道は繋がっているはずだ。あたしは今、しゃがみ込んでいるが、顔を上げれば10キロ先を見据えられる。また立ち上がり、歩き出せるタイミングもくる。その時を辛抱強く待つことにしている。あたしが選んだこの道は、あたしが10キロ先を向いている限り、夢へと繋がっているはずだ。

「I」だけで語り続けること

あたしはあたしを愛している。

あたしはあたしがどう考えているかを言葉にする。

あたしは「I」から語り始める人である。

あなたが、お前が、あんたが、彼が、彼女がというのは、あまり使わないように思う。いつもあたしが語り手であり、あたしがあなたのことを考えたり、想ったりするわけである。

 

これはあたしの自己主張が強く、個人主義な考えが強く反映されたものだと最近気がついた。言い換えると、意志が強く、他人のせいにはあまりせず、他人を巻き込むことがあまりないということだ。意志が強い、他責でないのは、一見いいことのように思う。実際一般的にはそうだろうと思う。だが、諸刃の剣で、他人の協力を求めたり、得たりすることができないということにつながる。これがあたしの「I」だけで語り続けてきてしまった結果、今浮き彫りになっているバランスの問題である。

 

つまり、「あなたがあたしを愛している」ことを信じられないのだ。「あなたがあたしを想っている」なんて、1秒ごとにあなたに証明してもらうか、耳元でつぶやいてもらわないと、あたしには頭にもよぎらないようなことなのだ。ただし、他人からの評価はかなり気にするので、「あたしは彼があたしのことをどう思っているだろう」とは考える。しかし、「彼はあたしのことをこう思ってくれている」とは考えられないのだ。そんなのは根拠に乏しく不確実性が高いので、日々の観察ややり取りの中で確信を得ることができないし、言葉にされたとて、あたしの言葉でない限り、その信憑性はやはり不確実なものとなるため、信じ切れないのだ。こうした理由で、あたしの愛を溜めるバケツの底には、穴が空いているわけだ。どうするべきかと数年悩んではいたが、具体策はないままだった。ただ、あたしはあたしだけは自分を愛し続けることを決め込んだ。

 

しかし、最近、知恵を授かった。「You(She/He)」の視点を持つことだと解釈している。「あなたはあたしにこうしてくれた」だから、「あたしはあなたに愛されている」と解釈し、繋げていくのだ。そして、それはできれば文字に起こすこと。人は防衛方法を学ぶため、ネガティブな記憶の方をより覚えている。文字に起こして、記録することで覚えておける、見返せるようにしていくのだ。なるほど。愛のスタンプカードである。

 

誰かがあたしに何かをしてくれること、それには背景がある場合が多く、責任や義務から行なってくれている場合が多い。あたしはそれらにスタンプは押せないだろう。だけど、とりあえず、なにごとも練習である。なにも策がなかったところから、具体的な行動案が出てきたのだ。やってみるしかない。結果については、このブログが続くにつれて、感じていただけるだろうと思う。

非生産的であること

なにもしない、なにも考えない。

最近はそんな非生産的なことに時間をかけるようにしている。そんなことしかできないほど、疲労感があるというのが一番の理由だが、他にもある。

 

毎日生きているだけで、インプットの連続なのだ。誰になにを言われた。インターネットでなにを読んだ。そんなことばかり。そして、それは別に語学学習のようにアウトプットして、身につけるように訓練する必要は特にない。ただ、思い出して反芻することは、ままあることだと思う。あたしにはよくある。「あの人にこう言われたから、こうなのかな、じゃあ次からはこうすればいいのかな…」などと、よく考える。この反芻を防ぎたいのである。反芻はその最中にかかる負荷が大きいからだ。

 

とはいえ、他人の意見を聞き入れ、理解と分析を行い、行動に反映していくことは、大事なことだ。この癖があることは、あたしの強みでもあると思っているし、人生を通して行い続けていきたい。なんなら、全員もっと我が身を振り返れよと思う。

 

しかし、だ。それができない時もあるのだと、体感している。やろうと思えばできるだろうけれど、そうすれば自分の精神的な負荷の限界値を超えてしまうとわかっているのだ。わかっているのに、鬱に飛び込むことほど馬鹿なことはない。挑戦してみたらいいじゃないかと初めは思った。だが、挑戦し続けた結果、倒れることになった経験を思い出した。不甲斐ないあたしでも、一応、学びがあるようだ。

 

「一旦、棚に上げておく」ことをアドバイスされたことがある。きっと、今までは毎日のようにあらゆることに行っていた反芻を、現在のように一旦保留にしておく、つまりは反芻しないということなのだろうと、最近は解釈している。保留にしている間に忘れるかもしれない。大事なことだったとしても、それはそれでいいのだと最近は思える。大事なことなら忘れないという根拠のない自信もある。

 

幸いあたしはその日暮らしの生活を送っているわけではないが、皆と同様にその日その日を生きている。その日を暮らすので精一杯ではあるのだ。そして、そんなあたしにとって、その日を終えるためにできることの一つが、なにもしないということだったのだ。戦略的に今この瞬間に集中する。マインドフルネスでもよく言われることだ。今この瞬間を生きること、それを何秒も続ければ、今日を終えることができるのだ。